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■ 2011年(平成23年)10月31日(月)
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心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ
四十九年一睡の夢
一期の栄華一杯の酒
諸縁を放下すべき時なり
黄昏とは、茜空にたぎる血潮のような光芒のはかなさ(=生命の短さ)と闇(死)に向かって疾走する無常迅速の運命を思い知らされる。
「朝の紅顔、夕べの白骨」
お前は何をしに生まれてきたかと秋風が笑う。
OB連発のゴルフでも、32.4もハンデがついて、テレビをゲットすることもあって10月晦日。
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■ 2011年(平成23年)10月28日(金)
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秋高し吾白雲に乗らんと思ふ(漱石)
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■ 2011年(平成23年)10月27日(木)
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「福島第一原発事故は途轍もない惨禍を露呈しつつ、未だ収束の兆しすら見えないまま時間が経過している。この原発事故は1+1は2、誰もが否定し得ない事実を我々に示している。誰が言っても誰が見ても真実である。思想信条、政治的立場は異なれど1+1は2という真実を、どうしても受け入れることが出来ない「保守派」の何と多いことか。
1+1を2と言えば馬鹿と罵り、誰もが否定し得ない原発事故を指摘すれば「サヨク」と決めつけ、撒き散らされる放射性物質は健康に良いとし、地域社会を破壊させた電力会社を守り抜けと叫ぶ、汚染区域が安全だと帰宅させられる住民のモルモット化・・・、何が起きても責任は全て「人災」に転嫁する知の崩落、夢か現(うつつ)か平成日本。
1+1は2、これは誰もが否定し得ない、誰が言っても真実である。思想信条、政治的立場が異なれど1+1は2という真実は真実である。
この度の福島第一事故による惨劇は、原発を基軸に推進しようとしたエネルギー政策の欠陥をさらけ出した。原発推進の背景には電源三法に基づく巨大な利権が存在する。再処理技術が未完のまま蓄積される核廃棄物とその対策処理費用、事故に伴う処理費用、これらがコスト参入される原発はどれだけ高価な電力料金か・・・などなど。結果はこの日本列島に途轍もない被害をもたらしている。
原発が、「自然にクリーン」又は「安価な電力料金」などの幻想は木っ端みじんに砕け散った。この真実を我々は思想信条、政治的立場を超え、1+1は2として受け入れなければならない。今現在を原発の”利便”につかりながら、後世にとてつもない負債を残していく無責任が許されていいだろうか。原発をめぐる立場の相違を越えた深刻な問題であり、誰もが避けて通ってはならない。先人が我々に残してきたこの日本列島は、原発の”利便”につかる我々だけのものではない。美しい山河を放蕩親父のように食い潰してはならないのである。」
脱原発 !愛国デモ行進 実行委員会 西村修平氏らの呼びかけ文。
尖閣諸島、竹島、北方領土など日本固有の領土を守り、日本民族を守る、美しい日本の自然と歴史と伝統を守り、日本民族の誇りを感じる人間であれば、日本の本土の3%(福島県一 県分に匹敵する)が人の住めない地域になろうとする時、日本民族の子孫が被曝するのを見るとき、あるいは、国土の防衛に原発がどれだけリスキーなのかを考えるとき、必然、こうした考え方になるのがよくわかる。
西尾幹二氏が「脱原発こそ国家永続の道」をいう。「この国の住人は永い間、裂け目の奥を覗き見ることをしないできた」「日本の原子力発電所は事故を前提としない事故対策をしていたにすぎない。原発の事故の現場は、核戦争の最前線と同じだという認識が頭からなかった」「核燃料廃棄物の最終処理が技術的に解決されていない以上、子孫に伝えるべき大切な国土が永久的に汚辱され、廃棄物を地下深く埋めても、地殻変動で将来どうなるのか分からない。国土は民族遺産である。汚染と侵害は許されない。」「エネルギー問題をイデオロギーで考えるのではなく、合理的にクールに考えよう、それが常識であると言っているだけだ。」「戦後もそうであったように、国柄そのものを奪われていく。戦後GHQは日本の左翼を利用して伝統文化を破壊したが、今回はオバマが民主党を利用して、TPPや外国人参政権その他を使って、わが国を再占領国家にふさわしく、中国やロシアや朝鮮半島に差し出す操り人形に仕立てあげるだろう」「商人国家路線を否定せよ」。
私も問おう。「福島で起きたことは福井では起きないのか」、「たまたま福井ではなく福島だっただけではないのか」、「必要だから安全にしてしまってはならない」と。自らが判断しなければならない。「不明を恥じる」という言葉がある。「だまされた」は何回も通用しない。政治家が誰に責任転嫁できよう。
「お天道様、見てござる」。
と、気合を入れて、オヤジが台所へ焼酎を飲みに行けば、女房は、文化祭の発表だといって、ハワイアンをかけ、フラダンスの練習に余念がない。三人娘も一緒に踊る。女房が旅行で遅くなるといえば、娘たちはオヤジの晩飯など心配もせず、誰も帰ってこない。
天下泰平。ま、世の中そんなものだ。
まるで原発などないかのように。
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■ 2011年(平成23年)10月26日(水)
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庭のモミジがきれいに紅葉してくれるだろうか、などと思って眺めていたら、足立美術館で見た横山大観の「紅葉」が無性に見たくなって、島根まで行けないので、本を注文したら、東山魁夷といっしょに本日届いた。
最近、集中力を欠いているのか、道草ばかりで、作業がちっともはかどらない。
今の道草はどうも日本という国の美しさ方面のようで、やたら、三島由紀夫とか川端康成になる。
三島由紀夫に「憂国」という短編があって、昔、読んだとき鳥肌が立ったのを覚えている。
ネットというのは次から次へと興味本位に飛んでいくので、「憂国」のDVDまで買ってしまったのだが、三島由紀夫の生の声が聞きたかったのに音声もなく切腹シーンだけなので、がっかりした。
林房雄はその著書『悲しみの琴』の副題を「三島由紀夫への鎮魂歌」として、次のようにいう。
「ただ、詩人にとって不幸なことは、大衆を代表して操作する政治家≠謔閧熄ュなくとも10年前に危機の実存と切迫を予想することである。「現在の日本には外患も内憂もない。その歯芽はあっても、内政と外交、経済と政治的操作によって容易に回避できる。21世配は日本の世紀だ」と軽信した政治家たちが、大衆を操作し、あらぬ方向に導こうとしている時に、予言者と詩人、宗教家と文学者 の一部の者が、危機と終末を叫んで、贋物あつかい、狂人あつかいにされ、世の笑い物になる実例は歴史に多すぎる」。
渡辺 京二に「逝きし世の面影」という本がある。
御伽噺に出てくるような、美しい日本という国に、アメリカの消費文明のようなものを持ち込んでいいのかというような文面がある。
「逝きし世」とは、この輝きに満ちた日本文明が死すであろうことを、西欧文明を持ち込んだ当の外国人識者が、明治初期に既に予見し惜しんでいたということ。墓標として書き残さずにはいられなかったという気持ちがよくわかります。
「保守」を名乗って、内側から鍵を開けるジャパン・ハンドラーズ、単なる商売人に過ぎないのに。
「保守主義」とレッテル張りのように形式や固定観念でしばって、貧困な思想で、身動きできない輩。
心の根をうしなっている現代の日本。
何が出来るわけではないが、自分の心根だけは、汚されないよう、水遣りを怠らないようにしなければならないと思う。
畑にある牡丹とサルスベリを庭のどこに植えようか、この時期、ナンキンハゼの赤みもいいが植える場所がないので植木鉢にするか、 ならば、どんな植木鉢が良いのか似合うというのか。
To Bee Or Not To Bee
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■ 2011年(平成23年)10月15日(土)
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「無機的な 空っぽな ニュートラルな 中間色の 富裕な 抜け目のない 経済大国が極東の一角に残るだろう」
この経済大国が寄る辺がなく揺れている。何の価値の根拠もなく、存在している。
価値の中心はどこにあるのか。
日本における正義というものは何なのか。
「人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき」
三島由紀夫を思い出す。
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■ 2011年(平成23年)10月13日(木)
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「欧米人には小我をもって自己と考える欠点があり、それが指導層を貫いているようです。いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争が内容である間は、人類時代とはいえない、獣類時代である。しかも獣類時代のうちで最も生存競争の熾烈な時代だと思います。ここでみずからを滅ぼさずにすんだら、人類時代の第一ページが始まると思います。
たいていは滅んでしまうと思うのですけれども、もしできるならば、人間とはどういうものか、したがって文化とはどういうものであるぺきかということから、もう一度考え直すのがよいだろう、そう思っています。それはおもしろく楽しいことだと思うのです。「考えるヒント」というのはそのひとつだと思います。人はそういうことを考えると、ほのぼのとおもしろくなるはずです。人に勝つためにやるというような考えは押えないと、そのおもしろさは出てこないですね。」
小林秀雄や岡潔の対談などを読んでいると、ここまでお粗末な国に品下がりするのかと情けなくなってしまう。
昨晩は、原発についてわかりやすく解説せよ、ということで、レストランで2時間余りお話したのだが、終わったら飲むぞ、といっていた人も静かに帰ってしまったとか、「明日から何をしていいのか、やる気を失った」、「もう間に合わんのやな」などという会話になってしまったようで、何だか余計なことを言ってしまったのか。
それでも、別の店で、今度は若い人を集めるから、来て欲しいという要請もあって、来月やることになった。
最近は、「祭り」とか「まちづくり」とか楽しいイベントなどは花盛りだが、政治的な話など選挙以外では皆無に等しい。私らの若い頃は、そういえば、明けても暮れてもそんなことをやっていたように思う。3S愚民政策が行き届き、メディアの情報操作によってつくられる考えない社会に底知れない恐怖を感じる。
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■ 2011年(平成23年)10月11日(火)
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「人間にはさまざまな目的がある。その目的を一列に並べてみたとしよう。するとちかいところにある目的ほど切実な目的であることに気づく。だが、切実ということは、かならずしも価値の大きさを意味しない。なぜなら、その目的は、たいてい、つぎの目的の手段にすぎないからである。したがって、目的の価値は遠くにあるものほど大きいといってもよかろう。つまり、人間の抱いている目的のすべては、いちばん向こうにある目的、最終目的の手段として存在しているのである。
こうした目的の連鎖を読書にあてはめてみると、どういうことになるのか。手近な目的のための読書は、切実な読書かもしれないが、けっして価値の高い読書とはいえまい。端的にいうなら、真の読書とは、いちばん向こうにある最終目的をめざした読書ということになろう。最終目的とはーいうまでもなく自分の完成ということである。」(読書の旅)
秋深き隣は何をする人ぞ
「茫々足る300年、この荘重の調べをとらえ得たものは独り芭蕉あるのみ」と芥川は評する。
日本は昔から情緒の中心だけは健在だった。それが汚されたら、いったいどこを指して日本というのか。
よせ!TPP
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■ 2011年(平成23年)10月9日(日)
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「ひとり燈(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなうなぐさむわざなる」
秋の夜長はすごく楽しい。
(禁酒禁煙の日)
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■ 2011年(平成23年)10月8日(土)
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昨日の委員長報告の反響が大きいので驚いている。
多少の説明責任を果たしたい。
本会議終了後、委員長報告に対し、本会議で慣例がない、私見だ、などご批判もいただいたのだが、昨夜から今日まで、何人もの議員から「感動した」とか「良かった」、「あなただからできた」、 「内容は共感する」、「委員長報告について定めたものなどない」など電話などいただいたり、今朝の新聞にまでご紹介いただいたせいか、「慣例でやるなら県議会などいらない、頑張れ」といったメールも届いたりして、困惑してしまう。
本人としては、何も気合をいれたつもりも、奇を狙ったつもりも、ましてやパフォーマンスなどというものなどカケラも持っていなかったわけで、委員会議論を通じて感じた議論の建設的・生産性という意味で、言いっぱなし、聞きっぱなしではなく、議会と執行部が今回の事故を 真剣に受け止め、議論を通じて主体的速やかに福井県としての総括作業を行なっていけるよう、執行部に「国の判断待ち」を改善するよう求めたものであり、次の議会に向けて、委員会議論が充実したものになるよう委員長として発言し たものである。
新聞に切り取りされた「批判的検証」、「不毛な議論」についていえば、「福島原発事故が発生したことによる今回の問題であるから、当然、従来の安全推進体制に対する「批判的検証」であり、安全確認できずに、再稼働も建設にも進めないないから、現時点でそれを質問しても、国の判断待ちで「不毛な議論」になりかねない、焦点を絞って段階的に問題をクリアして行こうということを申し上げたのである。(今回の議論が不毛だったといったのではなく、この調子で行くと、次も同様の展開になる可能性がることを 心配したものである)
県民福井の「国の対応待ちぼうけ」の記事は、形式主義にとらわれず、いわば、私と同様の視点で、議会を見ていたと思われ、それを記者が主体的に書いており評価できる。それを裏付けするように私の委員長報告を改造して利用しているのは、気に入らないが面白い。誰かは知らないが、なかなかのセンスが窺える。
しかし、 せっかく記事に掲載していただいたのに恐縮だが、今回の事故を受け「フクシマの事故は福井では起きない、起こさせないという自信と確信を持つことが、すべての出発点」であること、その作業を福井県自らが行う。執行部と議会・県民の共同作業で開始することについて、ジャーナリズムという視点で記者 の追及が求められる。
「注意」というのもどうだろう。予算特別委員長として、次の議会の内容の豊富化をめざして責任をもって発言した行為に誰がどんな権限で何を「注意」したというのか。形式主義に陥り、何が本質的なことか、大事なことは何か、ということを忘れて欲しくない。(そういえば、今度、議員研修会では上杉隆が講師に来るようだ。)
とはいえ、少し長くなった感はあり、何が本旨だったか聞き取れず、誤解を招いた部分はあったのかもしれないが、委員長の任務・責任・権限、委員長報告というものについての、認識の違いが大きい と思われる。(責任も何も感じなければ波風も立たない。)
委員長報告・・・・
福井県議会における委員長報告は、通常、議会事務局が作成し、県側の承認を先に取り付けた後、委員長に提出され、特に問題がなければ、それを読み上げるものである。たとえば「Aという質問があり、Bという答えがあった。その他広範多岐にわたる意見が出され、結果、議案は賛成で可決」といったパターンである。
したがって、県側に不都合な部分は先に取り除かれたものになる恐れが十分あるが、議会は委員長報告は委員長一任で本会議で一方的に聞いているだけで、ほとんど形式的で重視していないのが通常である。
しかし、私は、町議会時代から委員長報告は全部自分で書いてきた。特に町議会時代は、委員会の翌日が最終日というような時もあって、若かったので徹夜でテープ起こしをやって、まとめたものを報告し 、委員長として今委員会の議論がどうだったのか、どうあるべきか見解をコメントしてきました。県議会になってはさすがにテープ起こしまでしないが、自分もしくは副委員長に依頼して作成したり、最悪、時間がなくて事務局原案が前日に夜にしか届かなくても必要な手を加えてきました。(その結果、それはむこうの課長がダメだというんですというような話を何回か聞いて、なぜ、委員長報告に知事部局が絡むのか、議論した事実を書くのが当たり前だ と、言ってきたわけです)
その中には、議論を通じて、委員長としての見解を含めて指摘してきました。
委員長は司会者ではない・・・
委員長の任務として、「発言者を指名し、採決し、読み上げる」といった「円滑な議会運営」だけで日常的には特に問題はない。が、より中身のある議論をするためには、執行部に対する要請 を行う必要もある。
私が委員長をした時は、毎委員会閉会時には委員長として、委員会議論を総括し、次会までに改善することや議論のあり方などについて、言及してきました。
したがって、私は議員歴21年目になるが、一貫して、委員長として、こういう行動をしており、今回も同様に、委員長として、責任上、次の議会も今回と同様のレベルでの議論とならないよう、進化するよう、執行部に安全・総括作業を求めたのです。
今回の福島事故をみれば、おわかりのように、誰が責任者か、保安員などは反省の色さえ見せません。「安全は国の責任」で福井県が責任ではない、という責任逃れはできません。 私たち自らが「フクシマの事故は福井では起きない、起こさせないという」ことに責任を持たねばなりません。明日、地震が起きたリして最悪の事故が起きたとき、誰が責任者なのでしょうか?
私は県議会の一議員にすぎませんが、次の世代・未来に対してもその責任があるとおもって、思考し、行動しています。
チェック機能がその任務を果たさず、チェックしなかった結果が、福島原発事故です。
原発依存県、立地地域の死活問題は誰にも理解できるものです。
しかし、今回の事故が起きれば地域振興どころか避難民となりかねません。
命より原発を優先してはなりません。
議会と執行部は「車の両輪」の名の下に、議会が行政組織の「議会部」、「議会対策部」になってはなりません。
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■ 2011年(平成23年)10月7日(金)
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ともかく未来という情緒がわからなければ、生きるとはどういうことかわからない。
現在という情緒がわからなければ、厳粛さとはどういうことかわからない。
過去という情緒がわからなければ、なつかしさとはどういうことかわからない。
「学んで己の無学を知る。之を学ぶという」が、読めば読むほど痛切に感じる。
「読書尚友」とはいえ、読みたい本ではなく、読まねばならない本は苦痛に近い。読むことがではなく、知ってしまうことである。
そして思わず口に出る。
「マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(寺山修司)
この半年で購入した本だけでも100冊を超えていると整理整頓の苦手な私に妻が怒る。「いくつ本箱を買えばいいのか早く処分しろ」。
しかし、何をしていても福島原発事故が気にかかる。
どこまで放射能汚染は広がり、蓄積していくのか、甲状腺などのヒバクは次第に明らかになってくるが、遺伝子など晩発性のものを考えるとゾッとする。
東電と保安院の大本営発表ではない情報が欲しいものだ。国内の安全報道より海外情報が現状をよく伝えている。
本日で、9月議会が終了した。
「明日、地震が起きたらどうするのか」などと考える方が、心配症なのだろうか。
まるで原発などないかのように、秋の夜長、読みたい本を読もう。
一葉落ちて天下の秋を知る
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■ 2011年(平成23年)10月3日(月)
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進駐軍が初めて来たとき「進駐軍は日本を骨抜きにするため、三つのSをはやらせようとしている」 という巷説かあった。セックス、スクリーン、スポーツである。今やこの三つのSは、この国に夏草のごとく茂りに茂っている。私に全くわからないのは、この国の人たちはこれをどう見ているのであろうかということである。
山のあなたの空遠く
幸い住むと人のいう
ああわれ人ととめ行きて
涙さしぐみ帰り来ぬ
山のあなたになお遠く
幸い住むと人のいう
この淋しげな声は、季節はすでにものみなが命に生きる夏を過ぎてしまったことを示している。しばらくは、秋の夜長を虫の鳴き声が埋め尽くしていたものであるが、近ごろではその声もほとんど聞かれなくなった。最近哲学者の清水幾太郎さんが、哲学は近ごろ幸福ということを問題にしなくなってきた、という意味のことをいわれたと聞いた。
私たちの知識は、どこかに大穴があいているのではないか。初めからよく調べ直してみよう。
日本民族の滅亡だけは何としても食い止めたいと思う
(昭和38年 岡潔)
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■ 2011年(平成23年)10月2日(日)
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「他人の陰口はウソでも面白く、自分の陰口は本当でも腹が立つ」というのを寺の報恩講の説法で聴いた。
弥陀の法水で、ときにシャバのアカを落とす必要がある。
家族仲良く、誕生日の55本のロウソクを立てることを、幸福といわねばならない。
それこそ女房が最も望んでいるものもあり、ウルウルするのである。
昨日の「なでしこリーグ選」をテクノポートで観戦したが、夜、山岸議員から電話があって、「サッカーの試合で、テレビに映るな!お前の顔など見たくない」
というので、観戦模様がテレビに映ったことを知る。成田山福井別院の建立44年の引き出物のワン・カップを飲んでいたのだが、どこで映されているのか、あぶねぇ。
それでも神戸の9番、川澄の走りはすごかった。男のような走りとスピードには度肝を抜かれた。
試合は3−3の引き分け。新潟の3点はほとんど、神戸のバックパス・パス回しのミスにからんだものだが、リーグ戦レベルになると神戸でもあんなものなのかな。
「改革」の名の下に「米国主導の日本改造」がどんどん進んできた。TPPなどとんでもない。
日本国家が溶融していくようだ恐ろしさを感じる。
ところで、電力はなぜ自由化されずとも問題視さないのか?アメリカにとって旨みがないのか、都合がいいとしか思えない。
ウラン濃縮技術を商売にしようとしたのが「平和利用」のはじまりで、今でも圧倒的にアメリカ依存している。
対日イニシャティブ戦略は、内側から鍵を開けるジャパン・ハンドラーズやマスゴミ否マスコミを操作してのプロパガンダで完遂される。
日本を独立させよう。
2011年10月1日(土) |
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原発を考えるインタビュー 村上東海村長 極めて内省に欠ける国 |
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-2度の原子力事故を目の当たりにして思うことは。その教訓とは何か。
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