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■ 2012年(平成24年)9月18日(月)
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われわれは常々、文明ではなく文化国家でありたい、または文化都市をつくりたいと言っているのだが、現実には文明都市をつくりつつある。なぜそうなるのか。それは文明と文化ということが、はっきり分かっていないからである。
和辻哲郎は、文明とは、とりたての野菜にサラダ油をかけて食べることであり、文化とは、とりたての野菜を漬物桶の中に何日も漬けて、「こく」という隠し味を出して食べる、この隠し味のことを文化という」と言っている。文明である野菜サラダは表面的で一元的な味である。これに対し文化とは、漬物桶の中に何日も漬け、時刻の「刻」をかけることで、味に「こく」すなわち隠し味を出すことなのである。この隠し味のことを文化であると言っている。
文化を隠し味(和辻哲郎〉とすると、隠し味とは奇数における「余り」と言うことができる。なぜなら偶数は二で割っても「余り」は出ない。割り切れてしまって後に何も残らない。このことは隠し味のないことになる。
わが国の美学の本質は、この数寄(奇数)の美の一点にしぼらられると言っても過言ではない。
それは奇数(数寄)が持つ余りの変化と、限りなく続く縮小への方向である。
「此の道や行く人なしに秋の夕暮れ」
芭蕉の美学は沈黙であり負の美学だという。
行く人なしというマイナスと冬に向かうマイナスとがかけあわされた心細さを心に秘めながら、それでも行くのだ。
マイナス×マイナス=プラス その心強さを表現している。これこそ負の感性の本質である。単なる負的弱さでなく、心の奥に秘めた強さなのである。
「昔はジュリー、今はジジイだ」という沢田研二は、「60歳超えたら余生」だとして、余りを意識して生き方をしている。
最近、ちょっと心がはんなりしている。切り上げ60の年の技がなせることか。
やっと夏休みの宿題を書き終えた気分がなせる業か。余りが出てきた。
人間50年。55も過ぎれば、余白の人生さ。
激しく雨が降り出した。このまま濡れ縁に置き忘れた下駄のように濡れつづけていたいような・・・
それにしても、アメリカはどこまで仕掛けるのか。
戦後67年経ってなおアメリカの植民地のままである。
働き蜂が集めた蜜をすべて奪っていきそうな気配である。
デフレを促進する増税反対!TPP反対!オスプレイ導入反対!
アメリカから防衛器機を買わされるのではなく、国産で、自主防衛すべし。
アメリカのポチでなく、日本の自主独立派団結せよ!