29号(1/2) 30号(5/10) 31号(8/30) 2001年 32号(3/1) 33号(6/1)
時間よ止まれ
矢沢 永吉
罪なやつさ Ah PACIFIC
碧く燃える海
どうやら おれの負けだぜ
まぶた 閉じよう
夏の日の恋なんて
と笑いながら
この女に賭ける
汗をかいた グラスの
冷えたジンより
光る肌の 香りが
おれを 酔わせる
幻でかまわない 時間よ止まれ
生命の めまいの中で
罪なやつさ Ah PACIFIC
都会の匂いを
忘れかけた この俺
ただの男さ
思い出になる恋と 西風が笑うけれど
この女に賭ける
Mm―STOP THE WORLD
▼夏と言えば、サザンだのチューブだのというけど、私は矢沢永吉のバラード。
「時間よ止まれ」を聞いたとき、なんて美しいラブソングだろうと思った。
永ちゃんの歌に思い出のあるヤツが多い。
酔いがまわって歌うと、夢ばかり追いかけていた頃の話や「さらば夏よ、つらい恋よ」と昔の女を思い出すのやら様々であるが、先日は、「俺、この歌、流れた頃、随分ワルで、家庭裁判所へ十回も行った」と、今では、従業員もいっぱい抱えた立派な若社長が、殴らずにいられなかった悔しかった時代のことを話してくれた。
▼「今日から私たちも十代の仲間入り」。
「お父さん、トランクスでうろうろせんといてや」
「いいがの、ブリーフより」
「…………」。
はじめて、町議選に立候補するとき、「夜も眠れない。緑色の胃液がこみ上げてきて苦しい。女房の足にしがみついて寝ている」などと、さんざん愚痴を当たり散らした挙げ句、女房が妊娠したのを報告すると、友人たちは一斉に、「この大事なときに、一体、お前は何をやってるんや」と非難轟々であった。
まことに的を射た非難であったがゆえに、さすがに、多胎妊娠であることは、誰にも告げられず、女房が映像の股間に「ちゃんとついていた」というのを頑なに信じた俺が馬鹿だったが、ついているはずのものがなくて、「元気な女の子たち」は出てきた。
多少、品は悪くとも、でかい腹を抱えて選挙運動してた、あの最悪の母胎環境にいたことを考えれば上出来と感謝しなければなるまい。
そのツインズたちの十歳の誕生日。ケーキにろうそくを立てているのを見て思ったのが矢沢永吉。
母が逃げ、父が死に、おばあちゃんに育てられた永ちゃん。「明日、俺の誕生日だ」というと、「それがどうした」とばあちゃんに言われたけど、それでも、その日だけ、卵が二つついていたようだ。
「成り上がり者」その言葉を聞くとゾクゾクするぜ、くやしかったら成り上がって見ろ。
自分で成り上がるのかい、親にぶら下がるのかい?
「サクセス・イメージ」というのがある。思わないことは実現しない。高いものを求めて、そこへ向かっていく。
夢があれば強くなれる。何が何でも頑張り抜こうという気力が育てられる。
夢を求め、一人広島から夜汽車に乗った永ちゃん。
五〇歳になっても矢沢永吉はロックンローラー、私はといえば、立ちっぱなしでタテゆれステップのコンサートについていけず退場した。
エレクトーンは、とっくに大型ゴミへ出した。ギターは娘の部屋のどこかにあるのかも知れない。
永ちゃん二冊目の本は「アー・ユー・ハッピー?」と問いかけている。
▼小野(忠弘)先生が亡くなられた。
前号で、「萩原朔太郎の妹が三好達治の嫁さんだったのだから」と書いたら、西川副知事から、朔太郎の長女である萩原葉子が書いた「天上の花」〜三好達治抄〜(文庫本)をわざわざ頂いた。
中には、三好達治と朔太郎の妹(アイ)との三国町での貧しく不幸な結婚生活が書かれてあって、若ゑびすの風呂に入れてもらったとか小野忠弘さんに酒をもらったりして大変世話になったとかいう記述がある。
朔太郎の妹は3回目の結婚であるが、三好達治が一筋にぞっこん惚れ込むほどの美女だったのか、小野先生に、その時の話をゆっくり聞かせてもらおうといつ訪ねていこうかと思っていた矢先のことだった。
スペインの国立美術館。ピカソのゲルニカが飾ってある上のフロアには、小野先生の作品みたいな現代アートがたくさんありました。
「世界の小野」を強く感じ、それでも、小野先生の飾りの方がいいように思ったのでした。
私の選挙のとき、応援に、お弟子さんが、わざわざ先生がつくってくれた饅頭の箱に灰皿をくっつけたような作品をもってきてくれました。
最後にお会いしたのは、いつでしたか。先生が家の前の大きな石の上で、上半身裸で日光浴しているような感じでした。
しまったなあ・・・。まいったなあ。たっぷりと話したかったなあ。もうあえないなあ。
▼八月、葉月が終わる。いつから日本が赤道直下の国になったのかと思うほど暑い夏だった。
昔は、三〇度を超える真夏日は数日しかなかったはずなのに、いよいよ人間が住めない地球に近づいてきたか。小学校の娘が朝からクーラーをかけて、ごろ寝して、テレビのビデオを見ているのを見ると、まさに滅びの文明をひた走っていると実感する。
「世の中に蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 寝てもいられず」 (藩政改革を断行する松平定信の文武奨励をからかった狂歌)というのを見て、そういえば、今夏、我が家に蚊がいなかったのを思った。異常が当たり前になろうとしている。
仕方ない。異常気象に耐えられる体をつくろう。
「牛乳飲むより牛乳配る人の方が健康だ」。小出義男監督から、「君ならできる」といわれると、マラソンなんてと最初は思っていても、その気になってくる。高橋も千葉もそうやって乗せられてきたのだろう。
▼「月見れば/ちぢにものこそ悲しけれ/わが身ひとつの/秋にはあらねど」
どなた様も、素敵に秋を。
まだまだ、残暑厳しきおり、お体大切に。
ふらんすへ行きたしと思へども 萩原朔太郎の妹が、三好達治の嫁さんだったのだから、ひょっとしたら朔太郎は、こんなふうに三国の海を見ながら、遠いフランスのことを想ったのかも知れない。 |
戦後の日本にいまだに満たされない空白。一つは、神との対決。もう一つは、理想的人間像の欠如であるという。 どういう人間が立派で、かっこよくて、美しいのか。 傷つけあう「自由」であったり、付和雷同する「民主主義」であったり、単なるわがままを「個性」と呼んだりしているうちに、いつのまにか、人間として、していいことか悪いことかもわからなくなってきた。 「価値観の多様化」などといいつつ、そのくせ、求めるものは、大きな家や大きな車、ゴルフなどと均一的であったり、単に勉強しかできない人、お金しかない人を「えらい人」と評価してみたり。 仏教では、「後生の一大事」に気づいている人を最も勝利者として、「最勝人」と呼んでいるのだが。 成人式が、年々ひどくなってきているようだ。今年は、全国的には、会場で酒盛りし、祝辞を述べる市長に「帰れコール」をしたり、挨拶している市長につめより、クラッカーを向けてうち鳴らしたりしたりした地域もあったようで、ついに市が告訴し、逮捕者まで出すことになった。 何というか、人間が幼稚化、劣化していくような、情けない気分になったわけだが、そんなおり、本を探していたら、偶然、本棚から、「若人におくることば」(赤尾好夫)が出てきた。 それこそ、何を隠そう、今から24年ほど前、私が成人式の時、町から記念品として頂戴したものである。 人生に繰り返しはなく、青春はふたたび帰ってこない。 珠玉のごとき青春をいだいた諸君は、しんじつ自己を愛さなければならない。 自己を愛するとは、自己を向上させることである。深い知識、広い教養、よい性格、たくましい体格等は、いつの時代、いかなる国においても、こよなき美徳であって、これなくして人間の向上はなく、国家社会の繁栄もない。 しかも、これらもろもろの知識的道徳的美徳の滋養は、若い世代の諸君においてこそ達せられる。この機会をのがせば永久に不可能になってしまう。このことは、いきることとともに諸君に与えられた責務である。 この競争の厳しく激しい時代に、よりよく生きることは、決してやさしいことではない。 だれでも安易な道を選びたくなるからである。しかし、安易な生活に幸福はもたらされない。安易を喜ぶ人間は、すでに若人としての資格を失っている者である。 にもかかわらず、人は安易な生活に落ちやすい。『聖書にいう滅びに至るの道は広し』である。あえていう。人生は厳しいものと知るべきである。」 21世紀になっても、政・官・業の腐敗は顕在で、KSD汚職事件に外務省機密費流用事件であるが、こんな事件を見るたび、「大きな無私」が歩いていたような、昔の政治家や経済人にまつわるエピソードを思い出す。 西郷隆盛が征韓論に敗れて、故郷に帰ることになり、日本橋の家を売りに出した時のことだ。 買い主が現れて、「今の相場では、家の一部だけでも250円では買えません。そんな安い値段では頂戴致しかねます。」というのを、西郷は、「わしは商人ではないから、一銭の利益も得ようとは思わぬ。元値で結構だ」といって無理やり引き取らせたという。 日本興業銀行の頭取や会長を努めた中山素平は、昭和28年、開銀理事として出向するとき、興銀からもらった退職金をすっかり「前借り」の精算につかってしまい、ある人に「この借金のために開銀へゆかざるをえないのですよ」と語ったそうだ。 その借金は、ほとんど彼自身のものではなく、外地から引き揚げてきた同級生の転業資金とか、選挙に立候補した友人へのカンパとかで、ある時は、民族運動をやっている人のために月給袋をそっくり渡してしまい、妻の久子から「うちはどうやって暮らすのよ」と叱られたという。その時、中山はご丁寧にもカボチャを五つ六つ担いで帰り、それでまた、余計怒られたという。 「貧またここにいたって感激を生ず」(勝海舟)というほど極端ではないにしても、清貧の上に悠然とあぐらをかいているような図で、なかなかの風情であったらしい。 貧も恥ずるに足らず。恥ずべきことはこれ貧にして志なきなり。財も憎むに足らず。憎むべきは是れ財にして能なきなり。憎むべきはこれ財にして能なきなり。老も嘆ずるに足らず。嘆ずべきは是老いて空しく生きるなり。 ようやく、1月2月の繁忙期(総会・新年会)が終わろうとしている。 これだけ忙しく、何十日も連続で酒をのむのもやっぱりよくない。体にも悪いが、何か、スケジュールを消化しているだけで、まるで主体的に生きていないような感じである。 これを「忙殺」というのか。 「忙中の清閑、命より尊し」というが、その「清閑」すら、せかせかと新聞書きに追われ、昨夜も新年会が終わってから、本日、午前9時まで、徹夜で何とか仕上がった。 あと、数行。21世紀最初の新聞なので、表紙のデザインなど変えてみた。 「ほっとできる新聞」になっただろうか。 「身の冬の とどのつまりは湯豆腐の あわれ火かげん うきかげん 月はかくれて雨となり 雨また雪となりしかな しょせん この世はひとりなり 泣くも笑うも 泣くも笑うもひとりなり」 老妓の小唄に涙したという本を読んで、そういう味わいが欲しいと思う。久保田万太郎の孤独感、悲しいほどの詩が絶品。 「日陰がなく、日向だけの男は暴力である」。 「霜に打たれて柿の味、辛苦に耐えて、人の味」 本年もよろしくお願いします。お便りお待ちしています。
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12月1日号より |
福井県出身で二・二六事件の時の首相、岡田啓介氏は、海軍大将時代、よく若い海軍仕官たちの媒酌人をつとめられたようで、その時、いつもこんな挨拶をしたそうだ。 「結婚というものは、熱いフロに入るようなもんじゃ。我慢が大事じゃ。熱い湯に入るにはどうするのか? キンタマをグッとにぎるんじゃ・・・」 ここで会場は、いつも談笑と拍手となる。しかし、ある時また、これをブッたら、花嫁側から質問が出た。 「閣下、花ムコはにぎるものがあるからよろしいんでありますが、花ヨメはどこをにぎればいいのでありますか」 大将、この時、すこしも騒がず、「ムコ殿のソレをにぎるんじゃ」(爆笑) ◆
この秋は、ご縁があって、三組の結婚式の媒酌人をお引き受けした。 勿論、形式だけの仲人だが、新郎新婦には、誓ったように、苦難を乗り越え、「向かいあって、いうこともなし、柿をむく」といった境地まで、終生、添いとげて欲しいと願っている。 そんな思いをこめて、「祝婚歌」を贈る。 ◆
媒酌人として挨拶する時、「めでたい席なのだから、型通りでなくても・・・」という誘惑にかられるのだが、来賓でも海軍大将でもないと自重して、作家の吉川英治が、長女に縁談がもちあがった時、(昭和三十六年夏、軽井沢にて)書いたという次のような詩を紹介したりしている。 幸せ何と ひと問わば むすめは なにと答うらん 珠になれとは いのらねど あくたになるな 町なかの よしや三坪の庭とても たのしみもてば草々に 人生植えるものは 多かり 娘よ、幸せって何だと思う。 たとえ三坪の庭だって、いろんな草花を植えることができる。 人生だって、楽しみを持てば・・・といった感じなのだろうか。 「ゆたかさ」と「心ゆたかに」、似ているようで、実は天地万里も違っている。 幸せとは何か。 世紀末のこの国のゆくえを憂いつつ、新郎新婦を横目で眺めながら、いろんなことを考える。 ◆新相馬節の文句に、「ホロリ涙で風呂焚く娘は・・・けむいばかりじゃないらしい」 というのがあって、戦前の農村の娘の立場を歌って秀逸といわれているが、万一、先祖のおばあちゃんが、姑さんと喧嘩でもして、実家に帰って戻ってこなかったら、新郎新婦もこの世に生まれているかどうかわからない。 そんなことを思うと、先祖への感謝も生まれるし、不可思議な縁を感じる。 既に姉二人が生まれており、母親にしてみると、次も女かもしれないし、年もいってるし、産んでいいのやら悪いのやら、迷って、祖母に相談したらしい。 その時、祖母が「やめとけ」と言っていたら、私は、この世に生まれて来なかった。 ひぇ〜あぶなかった。祖母の遺影に合掌、礼拝。 ◆
私が生まれた時の父の年、四十四歳になった。三組やれば、一人前といわれる仲人もやった。 しかし、まだまだ、人間はできない。 江戸人の教養は、「身を修める」という個人の人格形成に重きを置いたという。 名著といわれる「日本百名山」を書いた深田久弥は、名山を選ぶとき、その選定基準の第一に「山の品格」を置いたという。 高さで合格しても、凡常な山は採らない。 厳しさか強さか美しさか、何か人を打ってくるもののない山は採らない。 人間にも人品の高下があるように、山にもそれがある。 人格ならぬ山格のある山でなければならない。 さて、「日本百名人」となれば。誰を選ぶのか。 ▼ 福井県ゆかりの橘曙覧の独楽吟こそ『幸福の原点』、橘曙覧こそ、人生の達人、この人に学ぼうという人がいる。 その信条は 「嘘いうな、物はほしがるな、体だわるな」のたった三訓であるが、豊饒の中で溺れる今日のわれわれに「幸福になるための条件」を示唆し、同時に人間が人間として生きるための「良心の掟」を教えてくれているという。 ・たのしみは/妻子むつまじく/うちつどい/頭ならべて/物をくふ時 ・たのしみは/朝おきいでて/昨日まで/無かりし花の/咲ける見る時。 「どこまでもまず人間を創れ、魂を磨け、さすれば幸福は向こうからやってくる」。 何事も当たり前と思ってはならない。 日々の生活の中での発見、身の回りの小さな喜びを集めてみよう。 ▼二〇世紀最後のホッとラインお届けします。 皆様からのご意見、お便りお待ちしています。
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「ヨーッ。相変わらずバカか」、フーテンの寅さんは、そう言ってフラリと帰ってきた。 挨拶言葉は山ほどあるが、なんとも味わい深く素晴らしい。
「ときには男をやめたくなる時がある」という文字が、料理屋のトイレに貼ってあって、ふと寅さんを思った。 演じた渥美清が亡くなったせいか、最近、何気なく空を見上げると、「相変わらずバカか」と笑う顔が浮かぶ。 世の中には、『奮闘努力の甲斐もなく』と、唄わねばならないことが多いし、『男はつらいよ』と、ときに男をやめたくなる時もあるが、「インケツ引いたような情けない顔すんな、思うにならぬのが人生だ」といった慰めがあるし、「カッコつけるなよ、気取るなよ、えらくなるなよ、すわって半畳、寝て一畳、皆同じじゃねぇか」と呼びかけているようでもある。 「相変わらずバカか、」 「相変わらずバカだ」。 そんな関係でいたいものだ。 *ところで「男らしさ」。 かつて、石原慎太郎氏と(故)三島由紀夫氏が『男らしさ』ということで対談する時、先に結論を紙に書いて、見せあいしたら、二人とも『自己犠牲』という四文字だったという。 ルバング島から二十何年ぶりで帰ってきた小野田少尉の表情はなぜ晴ればれとし、爽やかであったのか、(故)遠藤淳氏が次のように評している。 「男が自分の運命を甘受し、その任務を果たした時に生ずる爽やかさである」と。 「男は悲しいからといって泣かない。男らしい行為に涙する。」
かつて、「花も嵐も踏みこえて、行くは男の生きる道」とか、「顔で笑って心で泣いて」とか「落つる涙をマブタでおさえ」とか、うなった人も多く、現にそういう文句の似合いそうな男も多かったのだろう。 池田勇人元首相もうなった一人。池田邸へは、春闘シーズンになると「打倒池田内閣」といったデモ隊が押し寄せたようで、その際はひっそり静まりかえり相手にしないが、日雇労働者が邸の前で、「出てこい、出てこい、池の鯉」とやると、ニコニコして現れ、玄関に酒樽を運ばせて、ともに酒を酌み交わしたこともあったようだ。
総選挙を前後して、小渕元総理、梶山元官房長官、竹下元総理など大物といわれた方々が亡くなられ、財代を感じさせる。 金大中拉致事件に対する日本政府の対応を不服として、議員辞職した宇都宮徳馬さんもお亡くなりになられた。一徹の侍のご冥福を祈る。 落選した現職大臣も何人かおられたが、ふと思い出したのが、手心発言で落選した越智通雄元金融相。 この人は、福田元総理大臣の娘婿だが、初めて選挙に出た時の連呼はすごかったらしい。 「上から読んでも『オチミチオ』下から読んでも『オチミチオ』中に『ミ』のある『オチミチオ』ということで、子供たちまで面白がって、「上から読んでも...」と宣伝してくれて、断然トップ当選。ただし、投票用紙には「山本山」というのもあったというエピソードを何かで読んだからだ。 しかし、今回は、その「山本山」でも、むずかしかったようだ。 *「政治家たるべき者、一年お半分は本を読め」と言ったのは田中秀征氏(元経企庁長官)だったが。そんなふうにして、枕詞に「政治家たるべき者」といえば、山ほど出てくる。 最近は一般の人が諸外国へ行くのだから、もっともっと国外にも出ていって見てきなさい。 人よりも多くのものを読み、多く体験し、多く恥をかき...云々となる。 あれもこれもとなってくると、何をしていても何なに追われているようで落ち着かなくなってくる。 そのうち、イライラが募り、ストレスがたまってくる。 *『ユー・キャント・ハブ・エブリィスイング』 レギュラー番組をすべて降板して、半ば現役引退(リタイア)した大橋巨泉が「人生の選択」という著書の中で繰り返し使っている言葉である。 「人間の欲は無限であるから、あれもしたい、これも欲しいとなる気持ちはわかる。でも結局はアブハチ取らずになるのが関の山だ。 ボクはそんな時、こう考えることにしている。『今回の人生ではやめておこう』」。 *「分け入っても分け入っても青い山」ということか。 その種田山頭火は、人生に絶望し、自分自身に愛想をつかし、泥酔して、直進してくる市電に大手をひろげて立ちはだかり、そのままとび込んだ過去を持つ。 「遠山の雪も別れてしまった人も」 千万言ついやしても表現できない想いを、さらりと十七文字の短詩型のなかに歌ってのける捨てて捨てて捨て切った人間だからできることだと思う。 山頭火が出家したのは、大正十四年三月、四十四歳。 捨てることも学んでいかねばならない年となりにけり。 *「育てたように子は育つ」 などという文字を見ると思わずドキッとしてしまう。「『ただいまんご』」と帰ってきたら『おかえりんご』と返事して。」などと言っている間はいいが...。ムカついてもプッツンしたらダメよ。腹が立っても、火をつけたり、刺したりしたらダメよ。 この世に旅に来たと思って、不自由を常と思ってくださいね。 *ホットライン発刊三〇、記念特集号をお届けします。 多くの皆様のご激励、ご協力により、今日まで継続して発行することができましたこと、心から厚くお礼申しあげます。
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「文学作品ちは、つまるところ読む物の人生を研ぐ砥石である」と聞く。 といっても、その砥石は、刃物に対してこう生きればいいといった方法を提示する砥石ではなく、読む人の気持ちをさらに和ませたり、豊かにしたり、清らかにしたりといった、その自信に内在する精神の自浄力を磨く砥石ということのようだ。
「花開いて風雨多し、さよならだけが人生だ」と口にする時、人生には悲しい別れがあると心のどこかでわきまえておこう、そうすればゆとりもでき、日々あくせくしている気持ちを柔らかく研いでくれる。 また、不遇にある時は、人生辛いことがあっても、やっぱり生きていこうとそっとささやいてくれているようで、萎えた精神のバネを引き締めてくれる。「名詩」といわれるゆえんである。 ≪ご同輩、今年の「人事」はどうでしたか。 サラリーマンを辞めて、もう十年にもなるから、ご同輩とは言えないのだが、「友がみな、我よりえらく見ゆる日よ...」などと、やる気をなくしてはまいか、人事などというのは、くだらない事が多いから、そんなのに、一喜一憂して、自分を見失うようなことのないようにと、つい口をはさみたくなる。
「おでん酒/すでに左遷の/地を愛す」「熱燗や/あえて職場の/苦は言わず」などの句境を開拓したのは、幹部と衝突して、ひどい左遷をくらった岩田元東芝社長の若い頃の話。 左遷されるたびに、「気に入らぬ/風もあろうに/柳かなと手に三回かいたというのは、土川元夫(名鉄会長・故人) 「風車/風が吹くまで/昼寝かな」といいながら、左遷先のオランダに飛んだのは、「外務省三人の大臣」とまでいわれた広田弘毅四九歳の時。
「人は過ちを犯し、後悔し、自分をきりきざむからこそ、実は人間的なのだ」と言った人がいるが そのところが、火の粉をかぶらずにきたインテ・リエリートにはわからない。 出世は結果であって目的ではない。「出世につかえず、仕事に仕える」というのがプロの心意気というものだろう。 無役の時や閑職にある時こそ、樹木で言えば冬の季節、厳しい寒さを耐え忍び、しっかりと根を張って栄養を補給しておく大事な時期だと思う。 やっている人間は、人の評価などに左右されず、嫉妬せず飄々と自分の任務を果たす。 そして、充実した冬の季節を生きた者だけが、春が来た時、付け焼き刃のけばけばしいメッキのようなものでなく、味のある品格や風格をそなえた借り物でない自分の花を咲かせられると思うのである。 議員とて同様、しっかりとした定見ももたず、選挙と人事の時だけ、目の色変えて頑張るというのでは公害に近い。 ≪「桜木の下行く、ローラースケート、ゴロゴロと、お前はお前の道で咲け」(新緑) 学ばならないことは多い。みんなで公務員試験合格をめざす勉強もいいけれど、今のうち、「負ける練習、転ぶ練習、ぶざまに恥をかく練習」をしっかりやっておけと、桜の下行くスケボー少年に言いたかった.
≪景気回復基調とは言うものの、「仕事がなくて困る。たまにあっても利益がでない」と嘆きの声は強まるばかり。株価も乱降下で泣き面にハチの友もいる。 そんな多くの友に捧ぐ。 「君よ、朝のこない夜はない」 「嵐の中でも時間は過ぎる」。
≪「つめよ、つめつめ、つめねばならぬ、つまにゃ日本の茶にならぬ」と小三の娘たちが無邪気に唄うのを聞いたら、何だか、とても懐かしいものに出会った気がして、嬉しかった。 夏も近づく八十八夜、県議会に送って頂いて丸一年。次号は「ホットライン」も発刊三十号。 記念特集号として、久々に「紙面でデート」をやって、いろんな方に登場もお願いしようと思っています。 近況報告でも何でも結構です。 お便りお待ちしております。 鯛の値はねて 三国は祭来る(伯翠) |
*「裸に生まれて来たに何不足」という川柳があるようだが、欲望という名の分母を肥大化させて、どんどん充足率を低下させて、上を見て、横を見て、不満を増大し、愚痴ばかりで幸福がだんだん遠ざかる。 近所の法事に行って、「命は阿弥陀さまからの預かり物です」などと聞かされると、なるほど、それなら「返せと言われるまで大事に使わねばならない」 と妙に、素直に思ったりする。
*「お前は経営者でないから、経済をしっかり勉強しろ」と言われるので、意識して経済書をひもとくのであるが、しかし、どんな事を言ったて、いかに金を使わせ、消費を拡大して、経済を成長させるか、ということにつきるのではないか。 その社会は、美意識、つまりはカッコイイとかエライとか尊敬されるという評価基準が、「金をもっている人」となって、そうなることが幸せになる道だとして、子育てまで始まってしまう。時に、嫉妬で怒り狂い犯罪にまで及ぶ。 ブランド品欲しさに、体を売る少女を、大人は批判できるのだろうか。 「なぜいけないの」「へるもんじゃなし、誰かに迷惑かけないわ」などと言われたらどう答えるか。三人娘をながめていて、ふと脳裏によぎることがある。 週刊誌をひらけば毛だらけで、最近は、買うのにも未成年者のように勇気がいるが、目ざとい娘たちはそれを見つけ、「お母さん、可哀想」としきりに女房に告げ口するようだ。 しかし、こんな週刊誌を見ると、戦後、GHQが日本文化を壊滅させようとした戦略がしっかりと貫徹したように思える。 グローバリズムのスタンダードは、アメリカの価値を押しつける国家戦略とみておかねばならない。今こそ日本文化を。
「薄化粧八十八の春だもの」と米寿をむかえた普通のおばあちゃんが詠んだのを聞いて、「日本に生まれてよかった」といった人がいたが、何といっても聞きたいのは辞世の句。 「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」は芭蕉。私の高校入試の問題だったことはさておき、一般人から世辞の句を募集した「一億人のための辞世の句」という本がある。
・ありがとさん/ただそれだけの桜かな(四四才・男) ・五月逝くライク・ア・ローリングストーン(転がる石のように、四三才・女) ・通夜のせき美人薄命こだませよ(せめてもの女心、三五才) ・思いのこすこと/あるぞなもし豆の花(六五才・女) など 面白い。ちなみに選者の坪内稔典の句は、「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ。」 四〇過ぎたら、気のきいた辞世の句ぐらい持たねばと思う。
わが家の娘たちも百人一首を覚え出したようで、上の句を言って、私に下の句を言わせようとちょっかいを出してくる。 これでも小学校の時は、坂井郡優勝チームのキャプテンだったのだと自負はあるのだが、随分と忘れている。 将来、俳句ぐらいできるようにと「覚えるだけでなく、意味を考えろ」と言ったら、「ほんなことしてたら、みんなに取られてしまうがの」と言われてしまった。 速く取ること、人に勝つことが大事なのではない。「いとをかし」をじっくりと味わって欲しいのだ。 例えばこんなのはどうか。 ・我が宿は/都のはずれ安下宿/値上げしたと/家主はいうなり ・行きなれし/バーのあの子を/ながむれば/ただ月末の/ツケぞのこれる ・成績表/もらう時こそ悲しけれ/わが身ひとりの「不可」にはあらねど ・愛しての/後のデートにくらべれば/昔は物を与えざりけり ・なげきつつ/今朝もまたするパチンコの/いかに愚かなものとかは知る
句は出来ずともダジャレならできる娘たち。 「仏像がぶつぞー」 「電話してもだれもでんわ」 「マーガリン買うなら、あの角、曲〜がりん」 「あの世の話をしてやるよ。『あのよ〜』...くだらねぇと言いつつ、父ちゃんは何もできないのかという挑発にのって一つ。 「韓国のおばちゃんが怒った。コーリア」...さぶ〜。
新年早々、つまらないことを書き過ぎたようだが、「日本が海に落ちた。ジャッパン」などと言われないようにしなければならない。 「あなたは龍よ、昇るのよ」。女入れ墨師(藤純子)が賭場で見込んだヤクザ(高倉健)に龍の彫り物を彫り、その高倉健が出入りで傷を負った瞬間にピストルを構えて叫んだ言葉。 今年は竜年。「昇るのよ」といわれても、難しいことも多い。しかし、なぜか、難が有ると書いて「有難い」。「艱難時を玉にする」ということか。
男なら 男なら 未練残すな昔の夢に もとをただせば 裸じゃないか 度胸一つで 押して行け 男なら やってみな
今年も人生の応援歌を探しながら、精一杯頑張りたいと思います。本年もよろしくお願い申し上げます。 お便り有難うございます。何よりの励み、心の栄養です。 いろんなこと教えて下さい。 お待ちしております。
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